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石上神宮と物部氏について。物部守屋大連の妹君の太媛(布都姫)は石上神宮の...

 【19//2014】


石上神宮と物部氏について。



※ 【東方手書き劇場】 物部布都と導かれしゲームマスターたち


物部守屋大連の妹君の太媛(布都姫)は石上神宮の斎宮(斎王)だといわれているそうですが、実際のところはどうなのでございましょうか? また太媛は石上神宮に祀られて(もしくは境内または石上神宮付近に埋葬?)されているのでございましょうか?守屋公の墓所(八尾市)や祠(四天王寺)は知っているのですが、妹君や物部氏の一族(の墓所・神社・寺?はナイかね?)となると、どうなのでございましょうか?また、藤原不比等の子供たちが祀られて(埋葬されて)いるところは存在するのでございましょうか?長くなりましたが、どなたか詳しい方、ヨロシクお願い致します。

補足ちなみに饒速日命は物部氏の祖神だから、饒速日命が祀られている神社が物部氏の~、というのはナシの方向で。正確には物部ナントカさんが祀られて(埋葬されて)という感じでお願いします。










ベストアンサーに選ばれた答え




oe_multiさん






物部守屋の妹=蘇我馬子の奥さんを太媛と呼ぶのは紀氏家牒の逸文ですね。正史の日本書紀には書かれていません。また、石上神宮の「斎神の頭」になったとしているのも、同じ文献で御座います。

http://mononobe.digiweb.jp/siryou/takesiuti.html

先代旧事本紀(天孫本紀)にも系譜は違いますが、「布都姫」関連の記述があり、石上神宮を斎き祀ったことがみえます。

http://mononobe.digiweb.jp/kujihongi/yaku/tenson.html#06

天孫本紀のこの部分は、加藤謙吉氏が著書で指摘されるように、「守屋の滅亡後、蘇我氏が石上神宮の管理にも介入するに至った真実を糊塗せんがため」に執り行われた造作で、紀氏家牒はさらに「天孫本紀系の系譜などを参照にしつつ構成さらたもの」と見ることができます。

http://www.amazon.co.jp/dp/4642021523

このように、実際には石上神宮に斎王がいたことは確かめられナイことを前提に、王権の守護神を祀る聖域内に墓所のようなものが築かれることがありうるのかどうかを考えると、可能性としては非常に低いことがわかります。周辺の発掘調査の結果からも、神宮境内に墳墓がアルとの推測は出てきていません。

さて、古墳時代後期の大和における物部氏の奥津城としては、石上神宮からくらい近い杣之内古墳群(天理市杣之内町・勾田町・乙木町付近)と石上・豊田古墳群(天理市石上町・別所町・豊田町付近)が予想されています。
盛んに造営が執り行われた時期が、物部氏が雄略朝に大連の地位を得た五世紀後半ころから、六世紀までの時期に重なる古墳群たちで御座います。

お尋ねの守屋やその妹の時代となると、そろそろ古墳への埋葬が下火になっていく時代ですが、それでも有力者では七世紀も石舞台古墳のように、引き続き古墳に葬られる場合が多いで御座います。
そこで注目されるのは、杣之内古墳群では塚穴山古墳で御座います。六世紀と七世紀のちょうど境目あたりに築かれた古墳で、地図を確認していただけるとわかりますが、石上神宮から徒歩で行ける近さにあります。

http://74589594.at.webry.info/200808/article_5.html

また、石上・豊田古墳群の側では、ハミ塚古墳があります。やはり、六世紀と七世紀の境目ころの古墳で御座います。

http://74589594.at.webry.info/201111/article_1.html

両者とも、大変立派な規模の墳丘と石室を持っていて、石舞台古墳級と評されますが、石舞台に先行する点でより重要度も上がるのではナイでしょうか。塚穴山やハミ塚が築かれたころには、大和において石舞台のような大規模な方墳・円墳は他にほとんど存在していなかったわけで御座います。

所在地からして、石上神宮や神宮の東側に広がる布留遺跡に関係の深い人物が葬られたものと予想されます。


八尾市の守屋墳墓は、もとより大聖勝軍寺が寺勢の拡大のために太子信仰の一環として捏造した史跡で、実際に物部守屋が被葬者とは思われません。

河上邦彦氏はハミ塚こそ物部守屋の墓なのではナイかといわれてますが、どうでしょうか。


http://www.amazon.co.jp/dp/4311202822

アルいは、ハミ塚や塚穴山が守屋の妹や、弟の贄古といった、守屋死後まで存命したらしい物部氏の有力者の墓なのかもしれません。

余談ですが、森浩一氏は兵庫県高砂市にアル「石の宝殿」が守屋の墓として予定されていたもので、守屋の死により未完成のまま放置されたのではナイかと見ておられます。

http://www.amazon.co.jp/dp/4806147907
http://mononobe.digiweb.jp/tabi/houden/

奈良県天理市付近(大和国山辺郡)に並ぶ物部氏の根拠地としては、大阪府八尾市付近が知られますが、高安古墳群を物部氏関係のものと見る説もあります。

最初に提唱したのは白石太一郎氏で、白石氏自身は現今は渡来系グループともからめて説を撤回されてしまいましたが、古墳群の限定部分分を物部氏のものと見ることは他の研究者に引きつがれているようで御座います。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4827311684

奈良時代以降は太安万侶の墓など、墓誌が出てくる場合もありますが、古墳時代にはそういった風習もなかったようで、決定的な証拠が無いのは難しいですね。ぜひっ俗説・トンデモにまどわされず、考察を深めていってください。

藤原不比等の長男で右大臣藤原武智麻呂については、延喜式に「後阿陀墓」があり大和国宇智郡に埋葬されたことがわかります。現今は、五條市の栄山寺に墓所があり、これがあてられています。
不比等の三女、光明皇后の場合は「佐保山東陵」ですが、現今は奈良市半田開町にあって宮内庁が管理しているはずで御座います。






http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13109615588
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